コラム

悲しみの分かち合いとしての幸福を実現するための教育とは

※この記事は、第10回人生100年社会デザインフォーラム(財団顧問 吉田博彦氏と代表理事 牧野篤氏の対談)から抜粋したものです。

いじめの問題と当事者性について

牧野氏)改めて吉田さんの(本フォーラムでの)お話を伺うと、悲しみを分かち合う、そして自分が人のために役立っているという感覚を持てるのは、とても幸せなことだろうということはよくわかります。

自分を社会の中で生かしていこうとか、または存在していることを感じ取りたいと思っていたことについては、人のために、一番弱い人のために何かをしてあげるといったことが、自分がそこにいることの存在証明になるように思います。そしてそれがこの社会の正義を作っているのではないかと思います。

もしかしたらスウェーデン社会、またはジョン・ロールズが言っているような人間のあり方というのは、とても信頼感がある社会に生きていたり、または尊重しているという感覚を、子供の頃から持つことができるような環境に置かれているからそう思えるのではないでしょうか。

一方で、今の日本社会はどうなっているんだろうと思うのは、例えば学校の中のいじめの問題を考えてみると、「当事者になっていじめのことを考えて何とかしなければいけない」と、事件が起こったあとは皆さんおっしゃいますが、では当事者とは一体何なのかというふうに考えていくと、何か自分が直接いじめの加害・被害の関係ではありませんが、「傍観者」になってしまうわけです。

そのときの当事者性とは一体何かというと、「自分こそが一番弱い人間なんだから、自分のためにみんなが何かしてくれるべきだ」みたいな議論になっていってしまい、「誰かのために何かをしよう」ということより、「私こそが救われなきゃいけないんだから、私のことを大事にしてよ」と、みんなが言い合う関係になってしまっている。結果誰も何もしなくなってしまい、自分のことを大事にしてくれという相手先がない社会になってしまっていないかなと思うんですね。ある意味ではクレーム合戦みたいになってしまっているけれども、それはそうじゃない。

たとえば神野先生がおっしゃるような悲しみを分かち合いながら自分が人のために役に立っていることの喜びを感じられる社会というのは、どうしたらできるのだろうか。

吉田さんは全国の高校生や色々な子供たちと関わって、どんな思いをお持ちですか?

 

子供は何のために勉強するのか

吉田氏)私が思っていることは2つありまして、今いじめの話がありましたが、一つ目はいじめの問題が起こると社会的にはどうなるかというと、「ここの学校の先生はなにやっているんだ、教育委員会はどうなんだ」や、マスコミで報道する人たちも「困ったものですね」みたいな話になります。しかし、このことはその学校だけで起こっている話ではなくて、我々の社会全体にある構図じゃないかという考え方は誰もしないんですよね。社会全体で子供たちを育てていこうというふうな精神がないから、結局いじめの問題は誰かの問題ぐらいになっちゃうと。結局当事者意識がない。

2つ目に教育の問題でいつも僕は疑問に思うのは、学校の先生にしても親にしても、子供が勉強は何のためにするのと聞くと、「あなたの将来のためよ」と言う。

これを極端な言い方をすると、ある塾で授業を見ているときに、「将来良い生活したいだろ、良い車乗りたいだろ、だから勉強をしなさい」というと、みんな黙々とやっているわけですが、これは怖いなと思ったのは、自分のためだったら一生懸命頑張る人を作り、それが医者や官僚になったりするわけです。自分のためにやるわけですが、それが幸せなのか?という議論は誰もしない。親も「勉強は自分のためにやるんだからちゃんとがんばらなきゃダメよ」というふうに言うじゃないですか。その時に子供が、「いや、俺は自分のためだったらやらないよ」と言う子供はたぶん時々いると思いますがそういう考えを全部潰して、自分のためにがんばる人間を作るという事が起きているわけです。

私はかつて帰国子女の教育で海外を回ったとき、ほとんどの学校の教育目標が「To be a good Citizen」と書いてありました、「良き市民を育てる」です。また、あるところで言われたのは、「社会に役立つ人間になれば、人は人から大切にされ、幸せになれる。だから人のために頑張るということは自分の幸せのために必要なんですよ。そういう人、子どもたちに幸せな人生を暮らしてもらいたいがためにも教育をやっているんです。」って言われたときに、日本はなぜ勉強は自分のためとなってしまったのだろうと思いました。

確かによくよく調べてみると、戦前はお国のためにということを言いすぎて、戦後すぐにお国のためにとか、社会のためにとか言うと、軍国主義だとか言われちゃう可能性があるから、みんな自分のために勉強すると切り替えてしまった。それでずっときていますから、「勉強は何のためするんですか」というと、日本では「自分の将来のため、自分のためよ」という風に言うことを何の躊躇もなくそう思っているし、親も子供にそう言うようになったのだと考えます。

これは教育のあり方の問題と、もう一つは社会が教育というものを見るときに、学校にお任せみたいな形になっている。この二つの問題がおそらくこの神野先生が言われている悲しみの分かち合いとしての幸福ということのイメージを持たないまま、教育行為が進んできて、こういう社会を作ってきてしまったという気がします。

当事者性の二様性~人の身になって考えられること、利己性という側面から見たとき~

牧野氏)今おっしゃった当事者性とか当事者という問題と、学びとは、勉強とは、教育とは何かについて。今当事者ということが二様にあって、一つは今吉田さんが言ったように、当事者になって、我がコトを考えていく。そして、相手のこともおもんぱかって、人の身になって考えることができるようになることです。それはいわゆるシティズンシップの一つのあり方だと思います。

もう一つは、当事者性というのが教育の利己性や功利主義的なものと結びついてしまい、結局すべてが「私が当事者なんだ」と言い合うような関係になってしまい、「当事者である俺のことを尊重せよ」とみんなが言い合ってしまっている。自分のためだけにみんながサービスを与えるようになってしまっているのではないかなと思うときもよくあります。しかもそこに親や社会から「良い大学に入り、良い職に就きなさい」とか、「自分の将来のためですよ」という風に言われながら、何か自分ゴトにならないようなところからどんどん価値を与えられ、また評価をされてしまうようになっている。つまり、当事者として生きていくことが、評価されることにつながってしまう。

だからこそ「自分だけを大事にしてくれ」といった議論になってしまうのかなと。なかなか人のことをおもんぱかることや、想像力を働かせながら人の身になってみるといったことができないようになってしまっている。

そしてやはり個が確立をしていなく、個人がしっかりしていない。全体の社会の一つの価値観や雰囲気の中に入れ込められてしまっていて、その中で評価をされ続けながら自分だけを大事にしなさいみたいなメッセージが発せられてしまっているような、そんな感じがします。

 

吉田氏)そこなんですよ。最近では民間が公共に参加するのは新しい公共と言ったりするけれども、江戸時期は新しい公共しかなかったわけです。だって年貢取られて、税金取られるけれども、その税金が自分たちに使われるなんて誰も考えていませんからね。

大阪の橋は淀屋橋とかみんな民間が作っています。でもみんなでそこの通行料を取るわけではなく自由に使う。私は大阪のものですから、よくおばあちゃんから言われたのは、「男は稼いで半人前、つとめ果たして一人前ちゅうんや」と言われた。つまり「俺が稼いでやっているんだ」みたいなことは。大阪では通用しなかったんですよね。「社会的な務めを果たせ、そうでないと男として一人前とは言わんのや」みたいなことが当たり前だった社会が江戸期にあった。

明治というのはご承知の通りそれまでの日本の伝統的な精神の文化みたいなものが、近代化の流れの中にあった。近代というのは強力な形で経済成長しますので、そのときにエネルギーになるのは、利己主義、利己心と競争です、それが近代を作り上げていく。近代というのは常に競争と利己主義みたいなものが前へ出ていって、エネルギーの爆発で伸びていく社会をつくるわけです。

これが終わってくるのが人生100年という時代が来るわけで、「成長はもういいんじゃないの」というふうに言われ始めたのが、日本では1980年代から90年代です。教育もそこで変えなきゃいけないということで、臨時教育審議会が1984年にでき、87年に出した方針の中で生涯学習や、社会の教育のあり方の方向性を変えようとした。そこでは競争が基本ではないということを言いましたが、未だにそれを引っ張っています。今回この神野先生の悲しみの分かち合いとしての幸福 ―こういう社会を実現するには教育をどうしていけばいいのか― ということについて、まさにあの臨教審で言っていたように、方針を変える。

つまり、競争をベースにするのではなく、2020年の学習指導要領に書かれているように、共に学び、社会教育のあり方を共に考えて、その共感の中で学んでいくということを前提にするみたいなことになっていく。教育の政策もそのような形に切り替えていこうと変わっていっているけれども、今言っている社会の側や、先生の意識、おそらく親の意識も全然まだ変わっていないので、ギャップがなかなか埋まらない。

そこのところは人生100年財団の果たすべき役割としては、牧野先生がいらっしゃるわけなので、教育政策についてもこういう形の教育政策にしていかないといけないんだ、それをどう実現するかということを提起していくというのは、この財団の大きな役割のような気がします。