コラム

「長く生きる」社会で「良く生きる」

※ この記事は、2020年10月27日 財団設立記念フォーラム(神野直彦教授講演、テーマ:「経済学からみえる現在の社会と人生100年社会の展望」)から、人生100年社会デザインのキーポイントを抜粋したものです。

 「人生100年社会」というのは、これから向かう社会で、長く生きる社会です。私たちがここで「人生100年社会」をデザインするというのは、長く生きる社会で、その人間が「どうやったら良く生きられるのか」を考えていくということでしょう。

 これは、古代から常に学問の課題であり、研究者の課題でもありました。「良く生きるとはどういうことだろう」と、経済学の分野でも考えられてきました。経済学とはそもそも、モラルフィロソフィーから出ておりますので、「善とは何か」、「良く生きるとはどういうことか」ということを基本的に考えてきた学問だと言えます。

 「良く生きる」というのはどういうことなのかを考えていく、それがデザインするテーマです。

 『四万時間』とは、私が大学生のときに出版された本で、ジャン・フーラスティエという未来学者が書いたものです。「2030年には、人間が労働する時間は4万時間になる」と言われました。人間は自然に働きかけ、戦いを挑まないと生きていけない生物なのですが、その時間が一生に4万時間で済むというのです。4万時間の内訳は、週5日労働で、1日6時間労働すると、30年間経つと人生で働く時間は4万時間になります。ジャン・フーラスティエは、2030年頃には寿命は85年になるだろうと言っています。寿命を85年とした場合、生涯時間は70万時間になる。つまり、自然に働きかけるための時間は、4万時間で済んでしまうことになります。

 とは言え、人間には生物学的に必要な時間があります。睡眠、食事等色々しなくてはいけないので、これらに費やされる時間が1日10時間だと計算すると、30万時間になります。そうすると、残余の自由時間、つまり36万時間に私達はいったい何をするのか、このことを考えなくてはいけない社会になるということです。

 この事は、偉大な経済学者ケインズも言っています。「私が死んで100年後、孫たちの時代には、金銭的な成功が犯罪的な性癖だと感じられるようになるだろう」と。何故なのか、あるいは予測が外れたのかは分かりませんが、今のところは追いまくられるような生活になっています。こうした中で36万時間にいったい何をするのか、と言うことが問われたのです。

 フーラスティエは、「今まで王侯貴族しか楽しむことができなかったことができるようになるだろう」と言っています。例えば、音楽を聴く場合、実際に劇場に行って聴くことができる。そして音楽を楽しむとなると、自分でバイオリンを弾き、自分でピアノを奏でられる。また、自分で絵も描くことができる。そういった参加する社会になるだろうと言いました。

 また、大事なのはボランティアです。無償労働でお互いに助け合うことができるようになるだろうと言っています。

 次に、「代理人文化」との決別です。芸術家に代理人としてやってもらう文化ではなく、自分たちが自らやることができるような生活様式になってくるだろうと言うのです。つまり、観客として「観る」社会から、参加「する」社会へ大きく転換していくはずだ、と言うのです。なんといっても、36万時間もあるのですから。

「良く生きる」ための参加保障としての「学びの社会」

 牧野先生(当財団代表理事)が仰った「学びの社会」を私なりに解釈すると、「人生100年社会」の中で「良く生きる」ことに誰もが参加できることを保障するものとして、「学びの社会」を作っておく必要があるのではないかと思います。「学び」、更に言うと「学び合い」です。社会の構成員がお互いに学び合うことを保障するのが、「学びの社会」なのではないかと思います。

 トリクル・ダウンは、皆さんご存じのように、豊かな人をより豊かにしてあげれば、その人から豊かさが滴り落ちていき、貧しい人も結局豊かになっていくので、先ず先に走っている人たちをどんどん優遇してあげよう、というのがトリクル・ダウン効果の考え方です。今の多くの政府にこの考え方が入っています。それに対し私が主張し、また宇沢(弘文)先生も同じ考えかと思いますが、「ファウンテン効果」という考え方があります。

 大地から泉が湧くように、湧かせていかないとだめだという考え方です。「イースタリンの逆説」は皆さんご存知でしょうか。「イースタリンの逆説」とは、豊かさと幸福になることは、途中までは並行する。つまりどんどん豊かになっていくと、幸福度も高まっていく。ただ、途中までは比例しますが、ある一定の水準を超えると、豊かさと幸福が全然関係なくなってしまう、という逆説です。

 私たちは、イースタリンの逆説が通用するような社会に既に突入しています。内閣府の世論調査では、「モノの豊かさと心の豊かさ、どっちを求めますか」と聞いている調査では、1975年の時点で、「モノ」から「心」へと逆転するのです。つまり、心の豊かさを求めたいという国民の方が増えるのです。今では、心の豊かさを求めたいという国民が倍になっていますので、圧倒的多数の国民は心の豊かさを求めているのです。そういう時代になっていることに加え、有形財の生産はいままで「蓄える」ことが重要になっていたのですが、今後は無形財、つまり情報や知識を「惜しみなく与え合う」ことの方が重要になってくるのです。

 自然と人間社会との最適な関係には、これからはラーゴム(中庸の徳、バランスを取る等の意味)が重要となるかと思います。何故ラーゴムかというと、私たちは、自然と人間が生きていくためには、物質代謝を最適なものにしていくことを目指さないと、自分の存在そのものが危うくなってしまうからです。現代は、「この地球上に生命が存在するか」ということを決める権限さえ人類が持ち始めていますので、そういう「良識の経済」にしていくということが重要ではないかと思います。

 また、社会への参加保障として「学びあい」があり、この「学びあい」には、二つの形があると考えます。

 一つは「人間的能力」を引き出していくための栽培型教育です。ここでは、栽培型教育と盆栽型教育を分けています。盆栽型教育というのは、日本が今まで学校教育で特徴的な盆栽を育てるように教育を施すというやり方です。盆栽は、曲がりたくなくても、外から力を加えて曲げていき、作りあげていきます。つまり、型にはめ、訓練をするものが盆栽型教育です。それに対して、これから大事なのは栽培型教育です。子どもたちに「自由に伸びなさい」と、まるで植物を栽培するようにして、伸ばさせることです。では、教育では何をやるのか。当然ですが、伸びたいように伸ばさせるために、害虫を駆除したり、きちんとした肥料を与えたりすること、これが教育になるのです。これからは、各個人の人間的能力が必要になるので、それを高めていくといったことに繋がるのです。

 もう一つは、牧野先生が強調されている「関係性」です。宇沢先生は、ジョン=デューイの教育にも詳しく、ジョン=デューイの教育の言説の一番は「統合の原則」だとお考えでした。生まれも親の職業も違う子どもたちが、同じ教室に集まって、遊ぶ。そのことによって、わたしたちは生まれも育ちも違うのだけど、同じ社会の仲間じゃないか、ということを認識する。そういう感覚を培養するということです。これが重要で、仮にこれを統合教育と名付けるというお考えでした。

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