お知らせコラム

人の繫がりとコミュニティ 雑談文化が消えゆくことから生じる孤立について

※ この記事は、第7回人生100年社会デザインフォーラム(㈱studio-L代表取締役(当財団顧問)山崎亮氏と財団代表理事 牧野篤氏との会談)から抜粋したものです。

~初めに~

(対談より)ワークショップには「同期・非同期」(時間が同時刻かそうではないか(Ex:youtubeなどを見る))と「対面・非同期」(空間がリアルかオンラインか)に分けられますが、「対面×非同期」について考えると「部屋は開かれているので好きな時に入ってきてディスカッションし、話した内容を紙に書いて残していくといったスタイルも考えられます

牧野氏)「対面型の非同期」とは、言われてみると、いわゆる「おばちゃんたちの世間話」に似ていると思いました。ある意味で今日本では無くなってしまいました雑談文化、何かそのような場所がもっとあっても良いかなと思いました。

山崎氏)まさにそうですね。「ただ居心地がいいだけの場所」というのが用意されていて、プログラムも決まっていない。でも居心地がいいからそこに座ってちょっと飲み物を飲んでいたら、他にも居心地がいいと思って来た人がたまたまそこに座り、「この間も会いましたね」みたいな会話からちょっと話をすることになってくる。

なので、「この時間を切り分けてこうしてください」と言わないやり方がある気がするし、今牧野先生が仰ったようにかつての日本の文化の中で、多分そういった場で上手いこと調整しをながら、生活を作っていたのかもしれませんね。

牧野氏)なので、そうしたことが無くなっていくというのは、孤立をしていってしまうとか、または面倒くさいからやらないとかに関わっていくのかなと思います。

例えば、まち作り関係である審議会に伺い、生涯学習計画を作りましょうという話が出てくる。大体今どこの町も「つながろう」とか「結びついて」など言いますが、そうすると多くの公募委員の方々は「行政につながるなんて言われたくない」と言われたりします。「私は孤独が好きなんだから、つながるなんて言われたくない」という意見が出てきますが、我々の観点からは、孤独が好きだと言えるのは既に人とつながっているからだと思います。孤立をしているからではなく、誰かとつながっているからこそ言える話です。本当に孤立してしまい、孤立無援の人たちというのはそんなことすら言えないはずなんですよね。

昔のようにちょっとしたみんなが集まって、ごちゃごちゃなんでもいいから話をしているうちに、気がついたら調整できていたみたいな場所というのはもうなくなってきてしまっているので、それが特に厳しい孤立ということになると、次の問題が起こったりすると思います。

例えば特にいま若い女性の自殺が増えていますが、本来であればそう人たちも誰かに頼っていいはずです。でも、頼る先がないという中で、最後は自ら死を選ぶ人が増えてしまうことがあるんだろうと思いますし、それが今回のコロナ禍の大きな問題、もともと深く進行していたものが、今回晒されてしまったのだと思います。

「コミュニティ」「繋がり」 社会に尊重されていると一人ひとりが感じられる社会

牧野氏)そのときに、やはり今山崎さんたちがやっているコミュニティを作っていく、人間関係を作っていくことはとても大事な仕事だと思います。それが今対面ではなかなか難しくなってしまっていますが、そこでは新しい繋がり方、例えばオンラインを使いながらとか、何か新しい繋がり方を探さなきゃいけなくなっているのかなというのは、特に強く思います。

山崎氏)確かにそうですね。「コミュニティ」という言葉も、想起している人によって違う意味になっているので、話しにくくなることが多いなと思うのですが、改めて「繋がり」という言葉も思い浮かべているものの幅が大分違うので、すれ違うこともあるなと思いますね。

基本的にコミュニティという言葉はアソシエーションと区別して使おうと思っている人もいれば、アソシエーションと同じ意味としてコミュニティという言葉を使っている人もいる。またもっと緩やかなものとしてのコミュニティ、要するにグループみたいなものコミュニティというふうに呼んでいる場合もあるし、ネットワークのことをコミュニティと呼んでいる場合もある。社会学的に言うと定義が1個ずつ決まっているはずなのですが、一般の人たちはもちろんそんなことを関係なく、なんとなく一番響きのいいコミュニティという言葉で言っているため、「コミュニティってすごくいいものですよね」と言ったら、「いや、コミュニティを暑苦しいものだろう」と想像するものが全然違うものをコミュニティと呼んでいる。

繋がりというのも結構似ているかもしれないですね。「繋がりをつくろう」とか、「繋がりっていいよね」と言っているときに、思い描いている繋がりの幅というのがとてもゆるいものから、かなり強いものまでイメージしている人と、強いものしかイメージしていない人では違っていますね。「繋がりなんかいらないんだ、私は孤独が好きなんだ」と言っている人は、一方のゆるくて目に見えていないような繋がり、例えば「このパソコンというものを作ってくれた人と僕との繋がりがあるから、今使えているんだよ。」という風に思うのを繋がりと認知しているか。そこを繋がりとは認知していない人は、「私パソコンさえあれば孤独で生きていけますから」と言っていたけど、それは孤独じゃないよねという。多分繋がりという言葉が包含しているスペクトル、幅がだいぶ違うという印象がありますね。

牧野氏)やっぱり社会を作っているとか、社会の中に生きているといったことの実感が持てなくなっているんだろうと思います。なので、孤独が好きだとか、かまってくれるなというのは、かまってくれるなと言える関係があるから、かまってくれるなと言える。

この間言われたのは、例えば自分は本が好きで、図書館に一人で本を読んでいることが好きなんだからかまうなと言うのですが、それは本を書いた人や、図書館をちゃんと状況整備した人みんながいるでしょとか、もっと言えば税金みんな納めていますよね、と言ったこともありました。やはりそういうところが全部切れて吹っ飛んでしまうと、自分一人だけで良いんだみたいになっていく。そこに思いを巡らせるというのはなかなか難しいと思います。

だけれども、ごく自然に感じ取れる関係とか、その人自身が社会から尊重され、みんなからも尊重されているとか、「大事にされている」という感覚を持てるからといったところにも関わっていると思います。そのあたりが今何か全部切れていく中で、だんだん希薄になって来ていたことが、繋がりや関わりという感覚を失うということにも繋がるのかなという感じがします。